「ボスのおもひで」・・・彫伊馬蹄・・・
◆第1話
彼は色黒で荒っぽく、粗野で、それでいて頭がきれた。頭がいいと言うよりも、とてもずる賢かった。小学生だったあの頃の僕には、とても思いつかないようなエネルギーとずば抜けた統率力を彼はその当時持っていた。
僕らは、いつも一緒にいた。何をするんでも一緒だった。学校でも、放課後でも、休みの日でも、とにかく徒党を組んで地元の町を自転車で走り回っていた。七、八人の仲間の顔は今でもはっきりと思い出すことが出来る。
二丁目と五丁目が僕らのテリトリーだった。商店街の続くこの地域は、大人たちも荒っぽいがとてもやさしかった。そんな、都会の隅っこの小さな町の、そのまた小さな小さな街角のグループのボス的存在である男がこの話の中心人物である。
確か、彼の家は、街道に面したマンションの六階にあったと思う。エレベーターは暗く、とてものろかったのを憶えている。ちょっと不良的な兄貴がいたが、この兄貴がボウリングとプロレスに狂っていた。ボウリングは勿論マイボール、マイシューズ。部屋の壁にはアリ対猪木の大判のポスターが貼ってある。アリが手招きをし、猪木がリングに尻餅をついた格好でキックを出そうとしているやつだ。
ある日、近くの池のほとりのグラウンドで野球をやっていると、隣の地区の学校の奴らと喧嘩になった。どうみても自分らより年上だ。喧嘩の理由は本当につまらないことで、ストライクをボールと言ったことと、態度が気に入らなかったことの二つだった。態度が気に入らなかったのは、僕らがではない。ボス的存在であるその男が気に入らなかっただけだ。
彼の目配せにより、仲間の一人が彼の住むマンションに走った。彼の兄貴を連れてきて、加勢させようという訳だ。
彼の兄貴が、自分の友達を連れて現場に現われたのは、それから二十分してからだった。いでたちがすでにイカれている。だぶだぶのズボンにアロハを着ている。もちろん前のボタンはとめていない。何を思ったのか、なんと素振りを始めた。それが何とも異様にみえたのだろう、相手の奴らの言葉使いが、ガラリと敬語に限りなく近くなっていった。
「おい、お前ら!ずいぶん話し方が変わったじゃねえか。えっ!」
我らがボスが息巻いた。五時だ。ドボルザークの家路が池全体に流れ始めた。毎日決まって、この音楽がこの公園では流れることになっているのだ。
一瞬、音楽に意識が吸い込まれた。と同時に奴らは一目散に駆け出した。
「待てえ!」
僕らは追いかけた。足の遅い一人を僕は捕まえ、帽子を取って地面に叩きつけてから一発食らわせてやった。
「痛えええ!」
奴が、あまりにもありきたりの痛がり方をしたので、かわいそうになり、そのまま逃がしてやった。
グラウンドに戻ると、兄貴とその友達がバットを野球的に振りながら、『俺らが助けてやったんだぜ!』というような顔を見せて、唾を地面に吐き、足でもみ潰して帰っていった。
こうしてボスは彼の兄貴に一つ借りをつくった。そして僕らは我らがボスに一つ借りをつくったことになったのだった。
いつものように、家路につくころには、すっかり暗くなっていた。信号ごとに、一台また一台と仲間の自転車が、群れの中から離れて行く。
「じゃあな」
「バーイ!」
僕も、五丁目の交差点のところで、みんなと別れて右に曲がった。
こんな日常生活が、楽しくてたまらなかった訳では決してない。実は、彼らと一緒にいるのはむしろ苦痛だった。集団の異常性も、この少年時代に何となく感じ始めていたように思う。はっきり言えるのは、「あの頃はよかったなあー。懐かしいなあー」などとは、将来大人になっても決して思うまいと子供心に誓いをたてていたということだ。
例えば、一日一日がこんな風だった。まず我らがボスがその日の気分か何かによって仲間の一人を選出する。この選ばれた奴が本日のかわいい子羊となるのだ。これには、何人(なにびと)も刃向かうことは許されない。この子羊をみんながそろって痛ぶり、こづき、辱めるのだ。これに加わらなければ、お次ぎは自分の番なのだ。
ふーっ。今日は何とか免れた。しかし、明日は一体誰なのだろうか。恐ろしくて眠れない夜が続く。
僕の父は、この五丁目の南通りの商店街で雑貨屋を営み僕らを食わせていた。この町での父の評判は、酒を呑んで大騒ぎすること以外は大抵良かった。人々からの人望も厚く、細々と暮らすささやかな人々にありがちな、色々と生活の込み入った相談も多かった。
鬼の頑固親父。これがボスのつけた父の仇名だ。実の子である僕だけではなく、よその子供に対しても非常に厳しかった。これについて現在の私の意見を述べさせてもらえるのならば、「父は、ただのサディスティックな男だった訳ではない。彼は、熱心な教育者であったのだ」といったところだ。結論を簡単に言えば、父が本気になって怒るようなことを、僕たちは、毎日のように繰り返し繰り返しこの小さな町の中で展開していた訳なのであった。
買い喰いや門限破りは当たり前。ひどいのになると度胸試しと称して、交通法規で禁じられている自転車の二人乗りのまま交番の前を走り抜ける。
「こんにちは!」
と、大きな声で朗らかにおまわりさんに挨拶をすると、
「こんにち・・・・。」
と、おまわりさんも言いかけて、あわてて我に返り怒鳴りだす。そしてただちに父の店に電話がかかり詳細が伝えられるというシステムになっていたのだった。
このような様々な悪事の罰というか、悪事をやめさせ真っ当な大人になれるように少しでも何かさせなきゃならんという親としての危機感からか、家の仕事を言いつけられる頻度が次第に増えていく。登校前の店開けから、下校後の配達、店内の掃除、店の前の道路と横の路地の水撒きと箒掛け、商品棚への補充陳列、売上伝票の整理と売上金の計算、そして店閉めまで。これに年に二回、全商品の棚卸しが加えられていた。
これじゃあ丁稚奉公みたいだ。健全な少年として本来もっていなければならないささやかな自由は一体どこにあるのだろうかなどと、ない頭で考えていると、それを見透かした様に父から街道沿いの歯医者へ雑貨の配達を命じられた。よく酒屋さんなどで使っていた、いわゆる実用車と言われるごっついフレームの自転車に乗り、お尻を左へ右へとフリフリしながら街道へ続くなだらかな坂道を上っていった。
途中、右に折れると空き地があった。そこには半年前まで打ちっ放しのゴルフ場があった。それは線路の土手と薄汚れた黄色いマンションの間に長方形に伸びていて、その長方形の短い辺の部分が道路に面していた。そこが今となってはただの空き地となり、僕の一つ下の学年の連中の溜まり場としてこの世界では認知されていた。
普通、我らがボスの場合もそうだが、各学年に一人もしくは二人のリーダー的人物がいたものだ。一つ上の学年には二丁目の肉屋の次男坊が幅をきかせていたし、二つ上には同じ町内に住む本物の札付きの不良がいた。
だがこの一つ下の学年の連中は少し違っていた。彼らを束ねていたのは同じ学年の者ではなく、僕より一つ年上の彼らにしてみれば二つ年上の少年だった。その少年は、見るからに神経質そうで狡猾そうに見えた。しかも彼はこの町の生まれではなく転校生だった。
僕は街道に続く道のそのT字路で自転車を止め、生理的に嫌いなタイプであるこの男に視線を投げかけていた。すると五十メートル程向こうでそのネズミ男が僕に手招きをしているではないか。ペッと僕は唾を吐き捨て自転車のペダルに力を掛けて坂を上り始めた。
あんな気持ち悪い奴の三十五メーター以内の空間に入りたくなかったからだ。俺はおまえみたいにちょろちょろ年下のガキと遊んでいる情けない男ではないのだ。立派に大人の仕事に従事しているのだよと、さっきまでの自由を求めていた丁稚小僧の気持ちは急にひっくり返り、背筋をぴんと伸ばして自転車をこぎ続けた。
一度、配達については、父に厳しく怒鳴られた苦い思い出がある。勉学と家事という超過密スケジュールをこなす僕にとって、やすらぎの時間とは夕食前の一時であった。三十分ものの変身物のドラマの再放送を見ながら一服するのだ。一服といっても子供の僕は牛乳を飲みながら煎餅をかじる程度のことしか許されなかったのだが、ある日この休憩中に配達を命じられた。
半分休憩モードに入っていた僕には、この配達が当然自分がやるべき仕事というよりも、しようがなく頼まれたというイメージが大きかった。これがいけなかった。配達自体は簡単なものだった。特に遠くでもなく納品して集金してくる、いつもどおりのものだった。配達を終え店に戻りお金を数えるとわずかに足りないではないか。
「バカモノ!責任感を持って仕事をしろぉ!」
おそらく「いやいやだが、頼まれたから行ってやるんだ」という僕の心の内を配達に行く前から父は見透かしていたに違いない。
さて、先程の歯医者さんへの配達の話へ戻ろう。納品が無事に終わり商店街の緩い下り坂を流行(はやり)の歌謡曲など口ずさみながら下って行った。例のT字路にさしかかった時、やはりちょっと奴のことが気になって空き地の方へ目をやった。するとネズミ男のまわりに十人くらいの奴等がいて、こちらに気づくと駆け出して来た。
「コノヤロ、締めてやるうううう・・!」
とか何とか言いながらこちらに向かって来る。明らかに面倒くさいけれど、ネズミ男に行けと言われたので一応追いかけようかなという感じの走り方だった。僕は、他の奴らはわざと無視してネズミ男に向かってイヤミたっぷりに言い放ってやった。
「転校生のくせに調子のってんじゃねえー」
言い終わるとペダルに力を込めて店に向かって走り去った。走り去るとは、なんと卑怯な奴と思うかもしれないが、冷静に考えて十対一ではどうにも勝ち目はないし、僕が去ることによっていやいや向かって来ていた一つ年下の子分たちにしてみてもホッとするに違いないと一瞬にして計算したものであった。この世界に生きていると、このような動物的計算能力というものが非常に研ぎすまされたものにならざるを得ないのだ。
とにかく少年たちは、相手を感じることによって自分自身のいる立場をすばやく察知するものであったのだ。いわば超音波を発し、その跳ね返り方で障害物を感知するこうもりにも似ているとも言えるし、もっとかっこよく言うならば予知能力を持った超能力天才スプーン曲げ少年と言うこともできよう。
次の日ボスの生け贄に藤谷君が、めでたく選ばれていた。まあそれでいて和気あいあいとドッジボールなどで汗を流していたのだが、藤谷君への集中ボール攻撃がひと段落すると、ボスが校庭の片隅を見つめて放送委員の加東君にこう言った。
「なあ、バレーボールは足で蹴っちゃいけないんだよなあ」
ボスの見つめる方向に目をやると他の組の連中が、ホコリだらけのバレーボールを円陣を作って蹴っていた。マジックで書いた学校名は消えかけているが、明らかにそれは体育用の倉庫から持ち出した、いわば盗品であった。ボスの両目にメラメラと正義の炎が燃え上がるのを僕は見逃さなかった。
「加東君。放送して来いよ」
一瞬にしてそこにいた七人の仲間は、その意味を理解した。
我々は、にわとり小屋の隅で円陣を張り、これから始まろうとしている戦争のための役割分担を始めた。戦争には、適切且つ迅速な判断が不可欠だ。その点ボスにまかせておけばまちがいはない。加東君に一人が同行し、放送室につながる階段下に二人、邪魔が入らないように職員室に続く廊下に一人、下駄箱のホール入口に一人の見張りを配置する。僕と正夫君はボスと一緒に全体の見渡せる非常階段の踊り場に待機ということになった。加東君ら二人は放送室へ向かって階段を上って行った。
今日も青空にちぎれ雲がまばらに浮かんでいて、暑くも寒くもない良い天気だった。僕らは私語を慎み、じっとしていた。戦い前のこういう時が一番緊張する。僕はいつも大きいほうをもよおしてしまう。でもボスたちには、ばれないように我慢した。
その時、「ピンポンパンポーン!」とチャイムがなり、校庭とプールの間の金網にバインド線でくくりつけられたラッパスピーカーから加東君の声がゆっくりと流れ出した。
「連絡します。校庭ではバレーボールを蹴ってはいけません。すぐに蹴るのをやめて、ボールを体育倉庫に返してください。くり返しまーす・・・・」
バレーボールを蹴っていた連中の動きがピタリと止まり、怒りの視線が中二階にある放送室へと向けられた。
「さあ始まったぞ」
ボスはそう言うと非常階段を下りて移動を開始した。連中のリーダー格の山上がバレーボールを小脇にかかえて小走りに下駄箱のホールの中へ入って行くのが見えた。その後ろを四、五人の手下がゾロゾロと追いかけていた。
ホール入口で張っていた秀哉君が連中の最後の一人の首にすばやく後ろからプロレス技のネックブリーカーをかけ、引きずり倒した。山上たちが一斉に振り向いた。そこへ階段の上から生放送を終えたばかりの加東君ともう一人が下りてきて、
「おい!学校の用具を盗むんじゃねえ!」
と、大きな声で山上の後頭部に向かって叫んだ。山上はもう一度反対側の加東君の方へ振り返った。その何がなんだか分からないといった表情は、女の子にもてるのを売り物にしている二枚目気取りの山上にしては、意外なほど間抜けな顔であった。そのバレンタインにたくさんのチョコレートをもらう軟派野郎の山上の目には、胸の前で腕を組みガンを飛ばしているボスと我々の姿が、実際よりも五倍くらいの大きさで写っていたに違いない。
ちょっと間があって、
「お、おぼえてろー!」
と山上は、なぜか僕の顔を見ながら捨てゼリフを吐いた。そんなこと言われても僕は風紀委員だったし、あまり関係ないよーんと思いながらも、ややニヤッとした不敵な笑いというやつで返事をしてやった。
お昼休み終了のチャイムが鳴り、ドッと下駄箱のホールへ人が押し寄せてきた。戦いに勝った者同士、その余韻を楽しみながらふざけていると、突然、僕は目の前が真っ白になり耳がぜんぜん聞こえなくなった。それから視界の中心部分が丸くぼんやりと浮き上がってきて彼女がフェード・インしてきたのだ。
その姿は、この暗雲立ちこめる僕らの闇の世界に降り立った真っ白い天使のように見えた。意志の強そうな眉と遠くを見つめているような瞳が印象的なちょっと小柄な少女だった。やや前へ突き出た上唇がゆっくりと上下左右に動いている。少したって雑踏の中から友達に話しかけていた彼女の声がかすかに聞こえてきたような気がしたが、周りの騒音にかき消され、その美しいであろう歌声は僕の耳にしっかりとは届かなかった。
この年頃の女の子は、何故か大抵二人一組で行動する。となりで話をしている子は僕のよく知っている近所の女の子だった。三年前までは、銭湯の女風呂でよく顔を合わせたものだ。
僕はドキドキするこの胸の内が、みんなにばれないように、堂々とした勝利者を演じながら上履きにはきかえて教室へと向かう廊下を歩いた。
その日、家に帰るとさっそく生徒名簿で彼女の名前に目星をつけた。あの後、彼女の入った一つ下の学年の教室を確認しておいたので、大体の見当はついた。一丁目の一軒家に住む女の子らしい。住所の後ろに三〇一とか△△荘とかないので、勝手にそう思い込んだ。名前は・・・・、そうだなスージーということにしておこう。
僕はいつもどおり夕方の時間帯を店での労働に費やしながら、どこかで彼女のことを考えていた。この日から僕の生活パターンの中に、スージーという大きな要素が一つ加わることになったのだった。
夕食前の一時、スージーへの愛についてを様々な角度から分析してみた。しかし僕の持っているはずの動物的思考能力も何故か錆びついてしまったようで、意識が変な方向へ飛んでいっては戻り、また飛んでいってしまうというような感じで、ぜんぜん集中できない。
ただ、もの思いに耽っているのも家族に変に思われそうなので、三平に餌をやり井戸水を少し水槽の中へ差してやった。紹介が遅れたが三平は我が家の唯一のペットであり僕の親友でもある金魚だ。心が晴れない日は決まって三平の泳ぎを見つめてしまう。三平に心の中で話しかけていると、あっという間に時間がたってしまうのだ。
三平は赤と白の斑模様の金魚で形は限りなく鮒に近い。近くの小鳥屋さんで、
「一番丈夫な種類の金魚ください」
と、言って半年前に父が買ってくれたのだ。
僕は三平に聞いた。
「ねえ、僕が恋をしたらおかしいかい?」
三平は何の反応も示さなかった。
それからしばらく三平の華麗な動きを観察しながら深呼吸をした。そうしていると自然と頭の中が整理されてゆったりとした気分になってくるのだ。
落ちつきをとりもどした僕は、水槽の置いてある玄関の蛍光灯を消してトイレに入りしゃがんだ。すると足下の窓を叩きながら僕を呼ぶ声がした。
「おーい、早く出て来いよ」
竹田君の声だ。
「何だよ。ちょっと待っててくれよ。覗くなよ」
なんてことを言いながら、用足しもそこそこにトイレを出ると草履を手に勝手口の方へそっと向かった。こんな時間に友達が来るのは珍しい。父に見つかるとまた面倒くさいので勝手口から表に出た。夕食前の大人は、腹が減って疲れているのでとてもナーバスだから気をつけなくてはいけない。
路地に出ると竹田君と一緒に加東君が立っていた。竹田君はボスの次ぎに身体が大きく腕力も強かった。彼が怒って発狂すると何を言っても手に負えなくなるので、ボスも彼には多少気を使っていたくらいだ。
竹田君は外灯のチカチカした光の中の僕に向かって、ちょっと警戒しながら口を開いた。
「ここに来るのも大変だったんだ。遠回りして来たんだ」
「月がとっても青かったからかい?」
と僕はジョークを言ってみたが、まったく二人には通用しなかった。何かいつもと違う雰囲気なので、少しでも場を和ませたかったのだ。
「ごめん。それでどうしたんだい」
「今度、奴と俺が話をする。陰険なイジメ、みんないやだろう」
僕の心臓が突然バクバク鳴り始めた。奴っていうのはボスのことを言っているのだ。彼らのこの緊張感からするとまちがいない。でも本当だろうか。ボスが僕の彼に対する忠誠心をテストしているのかもしれない。こういったゲームをボスは平気ですることができる男なのだ。
僕は加東君を見た。加東君はじっとしていて何も反応しなかった。
こんな夜に果たしてゲームをするだろうか。今までのケースからすると前例はない。それに演技にしては、二人の表情・動き・口調が真実味を帯びていた。
「どういうことだい」
という僕の問いに、加東君が話し始めた。話の内容はこうだ。
昼間運動会の練習の時、ボスが加東君に家からカメラを持って来いと命令した。カメラといったら家庭内では断然貴重品だ。普通父親の管理下に置かれているアイテムである。加東君は無理だと分かってはいたが、とりあえず体育館の裏の塀を乗り越えて家の方向へ走って行った。
加東君は途中時間を潰し、学校へ戻りボスに家族がみんな出かけていてカメラがどこにあるか分からないと言った。するとボスは怒りはじめ、加東君の帽子と体育袋を三階の教室から投げ落とした。そして、そこにいたみんなに、
「こいつのもの全部窓から投げ落とせ!」
即座にみんなの手には加東君の教科書やカバン、筆箱が握られ、窓の外へ手が突き出された。いくら友達でもこの世界のルールでは、ボスがやれと言ったらやらないわけにはいかないのだ。
ボスはみんなの行動を確認すると椅子を蹴ってから教室を出ていった。
ボスには二人がついていった。残ったみんなは加東君の立場がよく分かっていた。彼の家庭はサラリーマン家庭で、昼間父親は勿論いない。母親もパートに出ていて彼のお祖母さんだけがいつも家にいた。夕方の買い物はこのお祖母さんが担当していた。それにテスターの部品を組み立てる内職の仕事もこのお祖母さんがやっていて、僕らの目から見ても決して生活は楽ではなかったはずだ。カメラだってきっと、とても大切なファミリーの財産だったに違いない。
僕らは次第に、「もしこれが自分がイジメられる当番の日であったらどうするだろう」と、考えられるようになっていた。
ボスが完全に教室の前の廊下からいなくなると、みんな一斉に窓の外から手を教室の中に引っ込めた。全員のその手には、教科書、カバン、筆箱がそれぞれ窓の外に落とされることなくしっかりと握られていた。
加東君はみんなの前でワンワン泣いたそうだ。
「だって、ただ自分のカッコつけて走るのを写真に撮りたかっただけじゃねえか」
竹田君が悔しそうに言った。
「もう我慢できないだろ。来週ルソーに話に行く。できればみんなで」
ルソーとは僕たちの担任の先生のことだ。二十八歳の若い先生で去年転任して来たばかりだった。百科事典に載っていたジャン・ジャック・ルソーの肖像画に顔が似ていたので、このあだ名がついた。本名は江本先生といった。
「ルソー信用できるのか?」
僕は今の話で完全に二人を信用していた。
僕は昼間、たまたま父の使いで職員室の教頭先生のところへ納品に出向いていて、この教室での出来事には立ち会っていなかった。
竹田君は続けた。
「もしルソーが動いてくれなかったら考えがある」
それから五分程、明日の段取りを打ち合わせてから二人はバラバラに闇の中へ散っていった。
→→→◆第2話へ続く