クロニクル・バックナンバー(-1-から-25-まで)
−1−◆月に1本、映画を観よう!
あなたは最近映画を映画館で観ましたか?それでは、最後に観た映画のタイトルと監督・主演俳優の名前をすぐに言うことができますか?もし思い出せないようなら新聞を広げて、おもしろそうな映画を選んでただちに映画館へ直行すべきである。
淀川長治さんを失ったことで、日本の映画産業はますます危うい状況に追い込まれて行く可能性が大きくなってきた。私も十代の頃には、ロードショウ・名画座と新しい古いは構わずに映画を観まくった。淀川さんのラジオ番組も週に一度必ず聴いて、映画のおもしろさをビリビリと感じたものだ。映画の良いところは、人生のためになるというところなのだ。
例えばその一つとして、その映画の主人公になれる。つまり自分でない人物に2時間だけ成りきることができるのだ。主人公がカウボーイならカウボーイに、マフィアのボスならマフィアのボスになって、その立場でいろいろと思考することができ、美しい恋人を自分のもののようにすることもできるのだ。別の言い方をすると、人の人生を合法的に覗くことこそ映画の魅力とも言える。それに背景となる舞台の歴史や衣装、小道具なんかの勉強にもなるし、いろんな国の人たちとおしゃべりするときに、いい話題にもなる。
どんなに忙しい人であっても、月に2時間くらいは時間をつくることができるでしょう。またどんなに生活の苦しい人であっても2千円くらいは捻出することは不可能なことではないでしょう。テレビ、レンタルビデオ、そして最近はケーブルテレビの普及によって映画館へ皆足を運ばなくなると悲観的になっている業界人もいるようですが、実際は郊外のシネマ・コンプレックスのようなスタイルで、少しづつですが映画館は増えているのです。ひとりで行くもよし、みんなで行って語り合うもよし、とにかく月に1本、映画を観て日本の文化を底上げしようではありませんか。
さあ明日にでも映画館に行こうじゃないか!
1999.1.21
−2−◆新人の登竜門
何にでも「新人の登竜門」というものがある。
人間はとかくグループを作りたがる動物で、音楽の世界でも小説でも芝居でも映画でも電気屋でも自動車屋でも、何でもかんでも業界という名のグループをつくってしまうのだ。これは早いもの勝ちの考え方で、卵子に一番乗りした精子が受精してしまうと、卵子の周りに膜ができ、その後の精子が受精できないのと同じである。
つまり、こうして業界を作った古顔たちは、某国の「一人っ子政策」と同じで、業界内の人数を調整するために「新人の登竜門」という名のオーディションを行うのである。
登竜門というと何かオープンで公平のような気がするが、決してそうではないのが現状だ。巷で多々行われているオーディションの類も相当インチキがある。
インチキの見分け方は、
(1)お金を取るオーディションはインチキ
(2)結果通知日または発表日が延びてしまうものはインチキ
(3)締め切りから発表まで極端に短期間のものはインチキ
(4)事務局の電話対応がなっていない所はインチキ
以上である。
(4)については、よく電話での問い合わせはお断りしますなどと要項に書いてあるものもあるが、「コピー機の営業です」などとしらばっくれて電話をかければ、相手先の雰囲気は大体分かる。
まあ業界の保身的傾向とインチキ傾向を承知の上で、登竜門を狙うしか一般人に今のところ業界に参入する方法はないので、とにかくがんばってください。
あとは、あらゆる手を使って業界人と知り合いになって、脅したり、すかしたりしながら成り上がって行くか、または業界人の重鎮の娘か孫娘とねんごろになって橋渡ししてもらうかしか手はない。
1999.2.7
−3−◆本物のSOUL(魂)について
私が音楽に初めて触れたのはいつのことだったのだろう。そんなことを考えること事態、意味のないことなのかもしれない。この世に生まれた瞬間に地球の奏でる何らかの音楽を我々は感じていたのに違いないのだから。
私が歌を初めて唄ったのはいつのことだったのだろう。それも同じく意味のないことなのかもしれない。この世に生まれた瞬間から全身全霊を何の惜しみもなく使って我々は唄っていたのに違いないのだから。
では私が能動的に音楽というものに関わり始めたのは何故なのだろう。これについてはハッキリと認識している。15年ほど前「SOLID SOUL」というバンドがあった。このライヴを見てシビれたからだ。彼らの音楽センスも音楽に対する純粋な姿勢も、とても共感できた。
都内の某地下道で、ばったりそのボーカルに会った。10分ほどお互い近況を話した。彼の『魂』は何も変わっていなかった。またしてもシビれた。寄り道ばかりしている人生の私だが、それでも彼のように『魂』を持ち続けていたいと思った。
現在彼らは「うずまき」というバンドで活動している。下北沢、吉祥寺などのライヴハウスで会うことが出来る。すばらしい『魂』をあなたもいかがですか。ブレイク前夜の彼らのSOULを・・・。
1999.3.3
−4−◆「うずまき」ライヴ・レポート
前回に続き、バンド「うずまき」について書く。
昨夜(3/20)吉祥寺MANNDA-LA IIにて彼らのライヴを観た。
アコースティックな部分を前面に押し出した前半とエレキギターに持ち変えてバンド的にアレンジした後半、そしてアンコールの1曲はマイク無しの完全なアカペラといった構成だった。
アコースティックだろうがエレキやサンシン(沖縄の蛇味線)だろうが聞く側にとっては大して受ける印象は変わらない。まあ、楽器を持ち変える間をうまく演出として見せていたといったところか。(逆に淡々と演奏をする彼らも観てみたい。非常に高い演奏力をを持っているので)
業界の人も彼らをどのジャンルに当てはめて売るべきかというところで悩んだと聞くが、確かに△△系とくくるには極めて難しいバンドだ。私の私見で強いて言わせてもらえば、ハワイアン臭、ジャズ臭、レゲエ臭、モータウン臭、マージー臭、日本の70's POP臭を混ぜ合わせた「INTERNATIONAL FOLK」または「MIX FOLK SONG」というところか。
※FOLK=民族伝承音楽
なお、「うずまき」の初CDは5/15に大手CDショップで発売の予定だ。興味のある方は聴いてみるといい。損はしないはずだ。
1999.3.21
−5−◆「自らの力で」 〜プロを目指す若者たちへ〜
我々、創造することを仕事にする者たちにとって、創り上げたもの、または創り上げた瞬間をどう多くの人たちにアッピールしていくかということは、常に抱える重要な問題である。
すでに一線で活躍する者たちは、少なくとも2〜3本以上のマネジメントルートを持っていて、このルートを通じて作品を発表していきながら、より条件の良い新たなルート開発に余念がないものだ。
では、一線以下の者たちはどうすべきなのであろうか。ただマネジメントオフィスに籍を置いて小さな仕事を待っていてもしようがない。そんな彼らが一皮剥けるためには強靭な意志と努力が不可欠であるのだ。
第一に自分の信じる才能に常に磨きをかけ、いつでも使えるようにテンションを保っておくことが出来なくてはならない。
そしてその一方で自らがマネージャーとなり関係各所への売り込み、オーディションへの参加など、戦略的に事を進捗させることが出来なくてはならない。
この両面で自らが目標とした一線を越えたと思える時、あなたは世間の言う一線を越えていることだろう。人に頭を下げるわけではない。自らの才能に頭を下げるのだ。
人のせいにしてはいけない。今あなたが売れていないのは、あなた自身が己に勝つことが出来ていないからなのだ。
さあ、武者修行だ。よく考え、自ら行動を起こそう!
1999.4.6
−6−◆自分の町を歩く
自分の町を歩いてみよう。今すぐ生まれ育った故郷に帰って歩くというのは難しいことかもしれない。でも、今あなたの住んでいる町なら明日にでも歩けるはずだ。
歩き方は至って簡単だ。とにかく一日何のプランも立てずに気のむくまま歩くだけだ。車もバイクも自転車も使わず、ゆっくりと自分の足で歩く。できれば家から駅までとか、毎日歩いているコースからはずれてみる。
商店街の気になる店に立ち寄るもよし、本屋で立ち読みするもよし、疲れたら古びた喫茶店で休むのもよい。
世界が小さくなったと言われる今日、自分の足場である自分の住む町を知るということは、逆に大切なことのように私は思う。
『自分の町を知らずして、グローバルを語るなかれ』
あなたは新しい発見を自分の中にすることだろう。
1999.4.18
−7−器UTU-HAストーリー(1)◆舞台「メシア」への出演依頼
GAKI・プロジェクトの中心人物(演出)の上田雄大から、旗揚げ公演の芝居「メシア」への出演依頼を受けたのが6月の中旬だった。約1週間考えた後、私はこの仕事を承諾したのだった。
なぜ、承諾までに1週間も要したのか。それは、「舞台」という響きが私にとって重要な記憶のキーワードであり、大切にしておきたいという欲求がとても強かったからなのだ。実際この舞台は、私にとって10年ぶりのものとなった。
具体的には、芝居の本編の始まる頭の部分で演奏するという役回りだった。ただ演奏するだけでなく、演出的注文として、「無国籍であること」「舞台設定の中で違和感がないこと」「舞台の中で生活する人物として演奏すること」が出題された。
それからの1ヶ月、私は私の構想なき構想を具現化するためのパートナー探しで明け暮れた。そうして集まったのが濱地乾太郎、湯沢修吾、中谷幸民の3人だった。こうして、無限の可能性を秘める歴史的音楽ユニット「器UTU-HA」が結成したのだった。
つづく・・・。
1999.11.18
−8−器UTU-HAストーリー(2)◆リハーサル開始
メンバー4人が決定したところで、リハーサルが開始された。リハーサルというよりは、まず何をどのようにやるのかという段階であったので、むしろミーティングといった方が正しかった。話し合いは難航した。とにかく具体的な源泉となる楽曲が全くなかったのだ。我々は、演出家チェックの日が近づくのに焦りながらとにかく話し合い、各自の持ち曲を出し合って音を出し続けた。
数回のリハーサルを終えた時、メンバーの顔にはありありと不安の表情が見てとれた。ある日、中野駅近くの路上でKENTAR◎が持ち込んだカセットテープを小型のカセットプレイヤーを囲んで皆で聞き始めた。これはKENTAR◎が今までのリハーサルでのメンバーの言動を彼なりに租借し、自宅で多重録音したデモテープだった。
「これだ!」
我々は揃って声を上げた。我々のイメージが今ここに楽曲として成立していたからだ。これはKENTAR◎の才能なのか、あるいは天から与えられた奇跡なのか。
こうして本当の意味でのリハーサル、つまり音づくりが始まったのだった。
つづく・・・。
1999.12.26
−9−◆「日本の悲劇」を観て
今回、器UTU-HAストーリーはお休みして最近観た古い日本の映画について書こうと思う。
木下恵介監督の「日本の悲劇」という映画をあなたはご存じか?先日、私はBS放送を録画したビデオでこれを観た。
主人公の母親は、終戦後の混乱期を女手ひとつで、娘と息子の2人の子供を育て上げる。開業医を目指す息子は、子供を亡くした医者の養子に、娘は妻子持ちの英語の塾の教師とどこかへ消えてしまう。どん底の苦労をして育てた子供たちが、母親の愛情をうっとおしく思い、なりふり構わず生きてきた母親をむしろ軽蔑する。そんな出来事の積み重ねで、母親は湯河原駅のホームから電車へ飛び込み死んでしまう。
佐田啓二つま弾くギターの音と終戦直後の混乱した市井の様子が挿入されていく。この時代このような悲劇は、そこここにいくらでもあったのだろう。民主主義にとまどう日本人。この映画から40年以上たった現代においても日本人は民主主義とは何かということを真に理解しようとはしない。
平等とは何か?尊敬、感謝とは何か?親も教師も政治家も乞食もすべてが対等に自分の将来の幸せだけを願って生きていくことが民主主義なのか?私にも分からない。
日本は戦争に負けたことで何かとても大切なものを失ったように思う。それは倫理観かもしれない。道徳と呼ばれるものかもしれない。
英語を武器に世界を駆け回る企業戦士たちよ!日本人としての倫理観・価値観を理解せずして世の道を説くなかれ!
考えさせられる映画である。親が元気なうちに孝行をしたいと思う。
2000.1.19
−10−UTU-HAストーリー(3)◆演出家・スタッフ・出演者の前で
KENTAR◎から提供された楽曲をもとに、我々は具体的な音づくりに入った。打楽器系、笛系、唄系、鈴系そしてドブロギター系とそれぞれパートを振り分けていく。限られた4人というメンバーでやりくりをする訳だから、一人一人は相当忙しくなる。慣れない手作り楽器などは、何回も繰り返し練習をするほか道はない。しかし、何をどう演奏するかと悩んでいた時期の精神的ストレスのことを考えれば、具体的に楽曲がある訳だから音合わせの苦労など苦労のうちには入らない。むしろ心地よいストレスを楽しんでいた感さえあった。
まず最初の節目は、劇団の演出家チェックの日だと考えていた。演出家からの注文を受けた後、初めて演出家他、スタッフ、出演者の前で実際に演奏するのだ。そこで芝居とのバランスを見てもらい修正・調整をしていく約束になっていた。
音のイメージについては自信があったが、なんせ器UTU-HAとしての人前での初演奏となるので相当なテンションを注ぎ込まなくてはならなかった。本番前の本番に対して、我々は褌の紐をキュッとしばり直し、それに臨んだ。
稽古場に着くと簡単に組まれた仮セットの中で、演出家から登場と退場のイメージをレクチャーされた。ブリキの缶を使った焚き火の炎を囲んで演奏すると言う。この頃、稽古時間が結構タイトになっていた関係もあり、出演者たちは仕出しの夕食を食べながら我々の演奏を聞くということになっていた。
演奏を開始した。特に緊張感は持たなかったが、他のメンバーの中にはかなり緊張していた者もあったように感じた。(本人は緊張なんかしていないと否定するかもしれないが)しかし音自体は、かなり強く聞く人たちにインパクトを与えたと思う。
初めてこの音を体感するということは、かなりショッキングな瞬間だと思う。現に私自身、KENTAR◎の持って来たテープをラジカセで聞いた時にそれを経験したのだから。
皆の食事の手も止まって、大きな拍手が起こった。演出家もOKのサイン。この瞬間、我々は劇団の一員として、仲間として受け入れられたのだった。
つづく・・・。
2000.3.1
−11−器UTU-HAストーリー(4)◆リハーサル、そして本番
基本的な方向性のズレのないことを演出家と確認できたので、あとはひたすらリハーサルを行うだけとなった。4人という少数編成で生(なま)楽器を演奏するというのは、考えていた以上にリズム感・各楽器の演奏技術・表現能力が要求される。メンバー各人のスキル・アップの訓練と同時に、グループとしてのアンサンブルも創り出していかなければならない。4人の呼吸が合ってこないと、演奏にメリハリがついてこない。ノーマイクで臨むステージだけに、このメリハリが命といっても過言ではないだろう。
これらリハーサルと同時に、当日パンフレットの印刷のことやステージ衣装のこと、チケットのこと等、詰めなければならないことはまだまだ山積みされていた。この時期、まさに期待と不安で一杯の私たちであった。
しかし、小屋に入ると不思議と不安が消え、とてもいい雰囲気になって来た。役者さんたちとのコミュニケーションもできるだけとるように心がけた。とにかく芝居の中の音楽を担当する1グループにはなりたくなかった。芝居自体の稽古にはほとんど参加できなかったが、私たちも役者さんに負けないくらいの心意気で舞台に立ちたいと真剣に考えていた。
いよいよ初日がやってきた。緊張する照明に照らされたKENTAR◎の横顔を見ながら、私の体からも熱い衝動が沸き上がってくるのを感じていた。
つづく・・・。
2000.6.9
−12−器UTU-HAストーリー(5)◆10ステージへの挑戦
まず最初に我々器UTU-HAのメンバー4人が舞台に板付く。舞台監督の小松さんの「開場しまーす!」の声でロビーに続く扉がすべて開かれる。お客さんが次々と入場して来て席に着いていく。この間我々4人は舞台上の焚き火(照明で表現)のメラメラくすぶる薄明かりのもと、不動のまま祈りを捧げているという設定だった。
約5〜10分の間、この状況が続く。お客さんの中には、「あれ人形じゃないの?」とか「なんか気持ち悪い」・・・「あっ、動いた!」とか声が聞こえてくる。中でも一番焦ったのは、「おいシュウゴ、シュウゴ、おい。そうか動いちゃいけないのか」と舞台の面まで来て話しかけた中年のおじさんがいた時だった。そのステージ終了後、そのことが話題になるとPBが照れくさそうにつぶやいた。「あれ、俺の親父です。すみません」というオチもついた。
お客さんがほぼ席に着いたところで舞台監督からキューサインが出る。演奏開始。7曲を抑揚をつけながら唄い演奏していく。このあたりで我々が人形じゃないことが分かってもらえるたことだろう。演奏終了後短い祈りを捧げてから立ち上がり、焚き火の火を消して(これも照明で表現)4人それぞれのねぐらに散っていく。そしてSEが入り芝居本編が始まっていくというのが大まかな流れだ。
これを1週間で10ステージ。調子がいいとか悪いとか言ってられない。オープニングのここでコケたら、芝居自体に悪影響を与えてしまう。まさにプロ意識を持たないとやり通せない。ただの演奏者ではなく、出演者だという意識で我々は臨んでいた。だから我々の出番が終わった後も、この10ステージのほとんどを楽屋のモニターか舞台最後列で最後まで見て、芝居の中になんとか溶け込もうと努力を続けた。
その甲斐あってか、器UTU-HAの演奏についても、回を重ねるごとに演奏のバランスもとれてきて、いい感じになっていった。
つづく・・・。
2000.6.17
−13−器UTU-HAストーリー(6)◆公演無事終了!
とにかく10ステージ、心を一つにして演奏を続けた。表現者としての集中力の持続について、自分自身再確認できるところが多々あった。勿論、反省点も含めてである。
楽日は、緊張感とともにこれで終わってしまうのかという、ちょっと寂しい感情もあった。最後のカーテンコールでは、スタッフはじめ器UTU-HAも舞台に登場し、あらためて観客に紹介され歓迎の拍手を受けた。そのとき「これで終わったんだ」と実感した。
役者さんもみんな達成感あふれる顔をしていた。稽古中は、ぶつかったり、気にくわなかったりみんなしたに違いない。そんなことは、全て水に流せるような力がこの楽日という日にはあるのだった。これがあるからみんな貧乏してまで芝居を続けるのだなあなどと人ごとのように思っていた私も、実は結構この味をかみしめていた一人だったのかもしれない。
なんだかんだと打ち上げも終わり、器UTU-HAとしての初めての仕事を終えることが出来た。KENTAR◎は必然だと言うけれど、私にはこの4人が集まり一つの仕事を成し遂げたということは、正に奇跡に近いと心から感じずにはいられなかった。
こうしてメシア公演は幕を閉じた。この後、器UTU-HAは2本の自主公演を行うことが決まっていた。
つづく・・・。
2000.9.12
−14−◆音楽との係わり方(パリの吟遊鉄道員)
・・・器UTU-HAストーリーはお休み・・・
ギターケースを抱えて職場へと出勤する。彼はパリ地下鉄の運転士。歌を口ずさみながら乗客を運ぶ。操車場の列車の中で唄ってみせる。その日の勤務が終わると、乗客として客車へ乗り込みギター片手に歌を唄う。駅のホームでは、そこにいるパフォーマーと自然にセッションが始まる。とにかく、いつでもどこでも唄っている。
駅の構内で唄う許可証をもらうためのオーディション。そこでは顔なじみのミュージシャンと軽く談笑。お互いに情報交換をする。オーディションは手慣れたもの。いつものとおり楽しんで唄うだけ。
ライヴには彼の細君の姿も見える。とても厳しく、でもとても親身な評論家。ライブは観客と共に唄い、とてものどかな雰囲気だ。ここでも彼は楽しんでいる。
テレビで見たこんなミュージシャン。いいなと思う。とても自然でリラックスした感じ。ただ唄っているだけ。私もそうなりたい。
2000.11.23
−15−◆自分の中の探求心
先日、近くの池の周辺を歩いた。水鳥が心細い日の光の中で、寒さも忘れて遊んでいる。こんなのどかな風景だからこそなのか、一組のテレビドラマのロケ隊に偶然出くわした。若き日々、「そんな中で汗したこともあったなあ」などとのんびりと目を泳がせていると突然眼光鋭い俳優が私の中のフレームに飛び込んで来た。
「あっ!」っと思い、近づくとそれは紛れもなく某個性派俳優D.Y.さんだった。深川殺人、川俣軍司役で一躍脚光を浴びた彼である。実はD.Y.さんと私は、(昔)演技指導を受けた師が同じ人で先輩後輩の関係にある。とは言っても同じ時期にそのスタジオで訓練を受けていた訳ではなく若干の時間差がある。一度だけ知人を通して浅草の飲み屋でご一緒させてもらったことがあるくらいだ。その時は私もまだ若輩者というか小僧であった。D.Y.さんと演技の現場や演技方法の話などすることもなく、ただ酒を飲み騒いでいたことをとても後悔している。
そして十年余り経った今、こうして出逢う瞬間があるということを奇跡と言わずしてなんと言おう。片や俳優業を貫き通し誰もが認める超個性派俳優、片やただの散歩人。これもまた人生、すべて受け入れよう。
話を戻そう。その眼光鋭い険しい表情からは、役に没入し撮影スタートの合図を待っている、あの頃私たちの目指していた俳優の姿を読みとることが出来た。細くなった池の散歩道。近くの幼稚園の子供らが固まって走り抜けたり、しばし撮影は中断される。そんな俳優にとっては過酷な環境の中で、今日もD.Y.さんは自己探求の旅を続けているように私には感じられた。十年前に理解することができなかったことが、無言のオーラによって私の心の奥深くに伝達された瞬間だった。自分の中の探求心の甘さ、継続性のなさを痛感させられた冬の散歩道であった。
そのロケ隊を遠巻きに見学していた主婦たちは、D.Y.さんのことを「無愛想な、目つきの悪いひとねえ」くらいしか思っていなかっただろうが・・・。
2001.2.6
−16−◆夢と希望
「夢と希望」があるから生きていられる。眠る前、明日はきっと今日よりは素晴らしいに違いないと信じられるからこそ眠ることができる。けれども常時「夢と希望」を持ち続けられるかといえば、普通それは困難だ。多くの人々(私を含む)は、春夏秋冬、朝昼晩、青年中年老年、気分次第で夢も希望もクルクルと変化していく。「夢と希望」が持てず眠れない日々が続くことの方が、圧倒的に多いのがこの世の宿命である。
皆眠りたいのだ。眠りたいので、人は身を粉にして働いたり、近所の公園を走ったりして身体を酷使するのに違いない。現実を一瞬でも忘れたいがために、人は何かに没頭しようとささやかな努力をするのだろう。
それこそ「何と夢も希望もないネガティブな考え方!」と思う方もおられましょう。でもこれが現実。裏を返して前向きにこの現実を受け入れるのならば、睡眠不足でヨロヨロしていても、朝起きられて、ご飯が食べられて、歩くことができるということだけで、とても幸せなのだと思えてくる。何故なら、それすらできない人たちが、私たちの回りにはそれこそたくさんいるのだから。そんな人たちに「夢と希望」を感じさせてあげるような生き方をしたい、それが私の「夢と希望」です。(などと言うとカッコ良すぎるか?・・・。)
そんな魅力的な生き方を実行している人から発せられるエネルギーの伝達は、無限に拡大していくもの凄いパワーだ。私も多くの人からこのパワーをもらって今を生き長らえている。特に若い人たちの全身から発せられるパワーは素晴らしい。なんと言っても羨ましい。スノボーをしたりダイビングをしたり、写真を撮ったり、世界旅行をしたりと、一点しか見えていない盲目的な若人の生き方に、私は異常な好奇心を持ち、そしてその美しさに感動する。
オジンと言われてもいい。回りのパワーを吸収し、私なりの「夢と希望」を求めて今夜も夢想する男、それが私なのだから。
2001.2.24
−17−◆心地よいこと
人間の手に入れたい幸せとは何か。生きているこの瞬間が心地よいこと。我慢するイライラやその他の恨み、妬み、哀しみ、苦しみとは対極にあるもの。ひとつのことだけではなく、仕事も家庭も趣味もすべてのことがスムーズにゆっくりと流れていく、そしてこれらのあらゆる事柄が、絶妙のバランスで融合した時、人は幸せを感じるのではないのだろうか。
多くのことが、うまく進んでいかないこの浮き世の中で、その瞬間を手に入れるコツとは何か?まあ、何事に対しても真剣に悩み考え抜くことかな。そして進むべき方向を決めること。現時点で考え抜いて出した結論がすべてだ(と思い込むこと)。そして後悔はしないこと。
「そんなこと出来る訳ないじゃないか!」
そうです。凡人には、そう簡単に出来ないのです。ただ考え方として言えるのは、あの時ああしていればこうならなかったのに・・・、と思い返してみても元に戻れる訳じゃないので、考えないという考え方の方が健康には良いのではないかと私は考える・・・と、何を言っているのか分からなくなってきましたが、要するに、心地よくなるためには、良く考え何事に対しても一生懸命やるということなのではないでしょうか。
2001.3.30
-18-◆嫌われるということ
万人が助け合って仲良く暮らす世界を人一倍夢見ているのに、何故か多くの人々に嫌われてしまう私。
ここまで言っても分からないボケや、はなから全く相手にしていない輩には嫌われても何とも思わない。でもこちらが好意を持っていた人物や長い間尊敬していた人から嫌われたのなら、それはちょっとショックだ。だから人は嫌われないようにしようと床屋に行ったり、髭をそったり、印象の良い服を選んだりするのかな?
無意識にボロッと人を傷つけるようなことを言ったりやったりしてしまう場面て以外と多いので皆さん気をつけましょう。
傷つけられた方はたまったものではない。傷つけた方は気づいてないのだから尚更困る。人から聞いたところによると、こういう人には何を言ってもだめらしい。
簡単に言えば、自己中心的な自分勝手な性格に問題があるだけなのだが・・・。
注)分かっていても止められない。感情をコントロール出来ない。いるんだよ、そういう奴。・・・・えっ!私のこと言ってるの?
2001.4.21
-19-◆美しいものと出会えるまで
音楽コンサートにしても、演劇・映画鑑賞にしても、心から美しい、感動したと思えるものがどのくらいあるだろうか。足を運んだ全体の3割?、いや1割?・・・。うーむ、その間くらいかな、経験値としては。
勿論、お金を払ってアート鑑賞に出かけるわけだから、情報誌や新聞、すでに見た人の評判など、事前に十分な情報収集・分析を行う。(この情報収集している時が一番楽しいのは私だけでしょうか)では、見に行くか、行かないか、どこに焦点を絞って決定するのかというと、人それぞれ違うとは思いますが、私はこんな感じです。
1)新聞・雑誌のその筋の人が書いた評論を読む。
これは、一般の人よりも多くの作品に触れているはずの人だろうから、一応頼りにする。あと、大まかなテーマなどが理解しやすい。
2)自分の趣味・好みに沿ったものであるか。
これは、夕刊の広告だとか、立ち読みした情報誌のあらすじ(レポート)・写真などから、時代背景や役者(出演者・作家)のキャラクターなどを勝手に想像して、自分の好みにどれくらいの距離にある作品かを予想する。
3)料金・スケジュールが調整可能かどうか。
内容には、関係ないように思われるが、とても重要事項である。なんせ、1観客として足を運ぶかどうかは、本人の気分と都合によるところが非常に大きいのだから。料金については、必ず人間、見終わった後に感動と料金とを秤にかけ、評価の善し悪しを左右するからこれも重要だ。(だから、無料招待券や人からチケットをもらったりして行く場合には、正確な作品評価はできない。基本的にアート鑑賞は、自分の金で行くべきである)
4)五体すべてをフル稼働させて、鑑賞作品を決定する!
そう、最後は自分が今見たいか見たくないか。これがすべてです。まあ、投資みたいなものですね。払った金に見合った、またはそれ以上の感動を得られるかどうか。失敗もまた自己責任で受け入れなくてはいけない。広告や宣伝にだまされたよ・・・、と思ってもまた見に行ってしまうようなものは、これまた潜在意識の中で気になる何かがあるということで、良しとするのです。
私は、見終わった後、自己評価が100点満点で70点以上であったなら良しとすることにしています。これからも自分勝手、独断と偏見の一般観客として、日々情報収集に明け暮れ、心から美しいと思えるものに出会えるまで、旅を続けようと思います。
2001.6.7
-20-◆ボリショイ・サーカス
猛暑の続く日本列島。こんな時は、心と身体のスイッチをオフいして過ごすに限る。私も7月と8月は日常から脱出して過ごすリフレッシュ期間とすることにした。「真面目に働いてばかりいるなよ」とまでは言わないが、頭と身体の半分くらいは、遊びの部分を持ち続けたいものですなあ・・・。
7月はじめは、那須高原で動物たちとたわむれ、童心に帰った。そして先日は「国立ボリショイ・サーカス」を鑑賞した。今回は、このボリショイ・サーカスについて書きたいと思う。
サーカスを見たのは何十年ぶりだろうか。それこそ子供の時に父親に連れられて見に行った記憶がかすかに残っているくらいだろうか。内容は、私がその頃見たサーカスとほとんどかわらないものであったと思う。踊りあり、マジックあり、クラウンの大道芸あり、空中ブランコあり、熊や象の曲芸ありと選り取り緑。勿論、生演奏で効果音なども楽団が挿入していく。ライティングや音響設備などは近代的になったのだろうけれど、そこにある、人を楽しませようとする芸自体は、まさに私の思い描いていたサーカスそのものであった。
観客は、圧倒的に家族連れが多い。我が子に自分が少年時代に得た体験と同じものを伝えようとでも思うのか、子供よりもむしろ、サーカスを見ている子供をあたたかい目で見つめている母親、父親の姿が私には印象に残った。これぞサーカス。ステージで繰り広げられる芸プラス客席のこの人生模様、これら二つが合わさって一つの世界が創出されているのだと、ロシア美女に囲まれた熊を羨ましいと思いつつ考えていた夏の一日であった。(勿論、今後の私のライヴ・ショウのネタも仕入れて来ましたよ)(笑)
そんなこんなで、まだまだ私の夏は続く。8月はじめには、イベントで歌を唄う。その他に釣りもしたいと思っているし、プールや海にも行きたいし、うまいビールもたらふく飲みたい。楽しみはこれからだ。暑い夏はまだまだ続くのだから。
2001.7.24
-21-◆夏の終わりに
"One summer night, we fell in love, one summer night I held you tight" というロマンチックな感じの夏ではなかったが、とにかく今年の夏は遊んだ。ラ・フェット多摩でのライヴなどもあったが、メインは佐渡へ渡り、佐渡おけさを体感して来たことか。(旅の出会いはいいぞー)
新潟港からフェリーで約2時間半、透き通る海がそこにはあった。そうそう、ロマンチックといえば、真野湾に沈む夕日は綺麗でしたよ。
あと、浅草の花やしきにも行った。いいねえ、日本で一番楽しめるアミューズメントパークじゃないかなここは。
9月に入り、現在ホームページにも掲載中の「彫伊馬蹄」氏の小説の舞台となったお祭りにも参加。台風の中、大いに盛り上がりました。
そんなこんなしているうちに、夏の疲れが一気に押し寄せ、高熱と腰から下が痛くて立ち上がれない状態(立てないどころか、痛くて眠れない)に陥ったのが先週の出来事でした。私、老体のため、丸2日間完全にダウンしていました。
しかし、寝込んでばかりはいられない。明日14日は、ガソリンズとともにライヴである。練習場所がなかなか確保出来ず、車の中で、ミニパトのチョーク攻撃をかわしながらライヴの準備を進める、そんな夏の終わりです。
2001.9.13
-22-◆「任侠」、「博徒」、場末の映画館
日々スケジュールをこなす生活が続くと、ふと日常から飛び出したくなるものだ。きっと、人それぞれその脱出法、ガス抜き法があるのだろうなあ。酒を飲む、衝動買いをする、高級レストランで大食いする、部下を怒鳴る、山の手線を一周する、旅に出る、夜中歩き続ける、バイクをぶっ飛ばす、トランプをする、逆立ちをする、近所を走る、公園の鳩を追いかける等、挙げ始めたらきりがない。
皆はどうしているのかな。他人のことはすごく知りたくなる。そんなガス抜きなんてしていないのかな。いやいやそんなはずはない。人知れず皆恥ずかしいことをしているに違いない。私だってあれをしなかったら、3ヶ月おきに暴れていることだろう。
あれとはあれですよ。ふふふふ、変な想像していませんか、あなた。ヒントは、某ターミナル駅の某映画館に「極道モノ」、俗にいうヤクザ映画を見に行く。ヒントじゃなく答えを言ってしまった。まあ要するに昔お祖母ちゃんが、週一度のプロレス中継をかかさずに見ていた心境に限りなく近いものがある。(たとえがおかしい?でも近い!)
皆さんご想像のとおり、ドンパチやるのを見ているとスカッとするからという理由の他に「任侠」、「博徒」、「義理」、「人情」・・・というキーワードに触れると何故か人生の悲哀を感じてしまう。そして、自分自身の今までやって来たことなどをあれこれと思い返して、悔しがってみたり、自信を取り戻してみたりしてしまうのです。
3本立てとかですので、題名や内容はあまり重要ではありません。この間もフラッといつもの映画館の自席に座ると、私の友人のKさんがかっこいい博徒役で出演していました。ああ、あの頃二人であんな話をしたっけなあなどと、そんな感じです。めくるめく走馬燈のように頭の中でイメージ映像が差し変わります。
そして、そのアブラムシの這い回る映画館を出てKさんに電話をしてみる。「ああ、留守電か」。簡単にメッセージを残して、一杯ビールをのんでから帰路につくのでした。チャンチャン。
「よーし!明日からまたやったるぞー!」
2001.11.11
-23-◆映画館について
前回のクロニクルでは、ヤクザ映画の話を書いた。今回は、私お気に入りの映画館を皆さんにご紹介しよう。
映画を見るということは、勿論映画の内容によって感動したり、がっかりしたりするものなのであるが、どの映画館で見るかということも非常に重要な要素の一つであるような気がする。つまり、今回はこの映画館という場所にスポットを当ててみようと思う。
はじめに、今現存する映画館で一番の私のお気に入りは『三軒茶屋中央劇場』だ。前回のヤクザ映画館も雰囲気は悪くはないのだが、なにせ汚い。やっぱりアブラムシを気にしながら見るのはちょっとねえ・・・。それに引き替えこの三軒茶屋中央劇場は、とてもメンテナンスが行き届いている。年輩のスタッフ数人が、もぎりから幕間の掃除まで行うのだが、とてもスムーズで徹底している。そして、入り口のポスター掲示板からはじまって、ロビーの雰囲気、階段の感じ、トイレの臭いと独特のムード、どれをとっても完璧なのだ。
かかる映画は、ロードショウ落ちの2本立てで、結構見落としてしまったモノもかかるので要チェックだ。私は同じ見るなら、ロードショウ落ちを待ってでも、日本劇場のような最新音響設備完備、超ワイド大画面の大劇場よりも、心落ち着くこの三軒茶屋中央劇場で見るほうを選ぶ。
三軒茶屋といえば、246沿いに昔もう一軒映画館(名前は忘れた)があった。ここも良い感じの映画館だった。スクリーン前のステージ部分もしっかりしていて、ちょっとしたパフォーマンスにも使えそうな小屋だった。残念ながら現在はもうない。
あと『自由ヶ丘武蔵野劇場』もよかった。今のフィットネスクラブのビルの2階にテナントみたいに入っているのは、建て替えられ別物である。大体エスカレーターで入り口まで登っていく事自体、映画を見る者の想像力を減退させる。
70年代後半に川谷拓三主演で『さらば映画の友よ』という映画をこの映画館で見た時のことだ。一日一本必ず映画を見る男の話なのだが、その主人公が通う映画館が、なんと今その映画を見ているこの自由ヶ丘武蔵野劇場だったのだ。スクリーンの中に写る映画館が、その時この映画を見ている映画館であって、川谷拓三がいつも決まって座る座席が、私の右後ろ5列目くらいにあって・・・。映画館の出口で友人と話しをするシーンで、見ていた観客も自分の今いるこの映画館がこの映画の舞台であると確信し、客席がざわめいたのをはっきりと覚えている。私がまだ14-5歳くらいだった時の話だ。
そんな思い出の映画館も次々と姿を消していき、今は本当に心安らげる映画館というものが、なくなりつつあることはとても寂しい。
その他に邦画の名作をシリーズでかける大井町の『大井武蔵野館』、「欲望という名の電車」と「波止場」の2本立てを見た東京駅の『八重洲スター座』、客席の真ん中に柱が立つ渋谷の『渋谷文化』、今でもあるのかな?高田馬場の『高田馬場パール座』など思い出の映画館をあげだしたらきりがない。
そんなお気に入りの映画館からでてくる時は、きまって見た映画の主人公になりきっていた。そんな自分をほほえましく思い出す2001年師走である。
2001.12.7
-24-◆今の願望
今の願望。
◎好きなとき、好きな本を購入したい。
◎読書や創作活動に没頭できる、独立した書斎が欲しい。
◎好きなとき、好きな映画や芝居を見たい。
とても贅沢な願望。
2002.2.3
-25-◆そんな場所
昨夜は、久々に三軒茶屋のp・fへ足を運ぶ。貸し切りのライヴについての取材が目的だったが、しっかりと唄って帰って来た。
最初は、ここのオーナーとその友人、そして常連らしき数人が店の中にいた。トランペットやサックスを各々で吹いている。私は、若い店長から貸し切りについての条件などを聞いていた。
ブルース・ブラザース好きのサラリーマンやボサノヴァを弾き語る40代のあやしい女性、若い女性の二人連れなどで徐々に席が埋まっていった。
ラ・バンバ、スウィートホーム・シカゴを唄い、最後に監獄ロックのギターを弾いた。
仕事後にどこからともなく集まる、心に色々な思いを抱えた人々。そんな彼等は、心の叫びを歌や楽器に託し、一瞬の間浮き世を忘れようとする。
このような場所が日本にも根づき始めたということは、音楽ファンとしてはありがたいのだが、それだけ空虚さを抱え込んだ人々が増えているということなのではないかなどと考えるとちょっと複雑だ。
勿論、そんな理由(わけ)ありな人々の中に、この私もしっかりと入っているのだが・・・。
2002.2.9
|トップ|プロフィール|クロニクル|ソング|S氏のCD紹介|パフォーマンス|リンク|